History
[ 殿川家の歴史 ]
殿川家は、初代 殿川徳次郎に始まります。
翁は、先代 原田元右衛門の弟 原田仙蔵の二男として、嘉永元年八月二十九日勝本で生まれた。幼時、父の家運が振わず、非常に貧乏のうちに成長。二十五才の時、父仙蔵と共に酒造業を始め、自ら米を搗き、水を汲んで兄妹を励まし、全く寝食を忘れて家運の挽回に努めました。
三十才の時、父を失った後、殿川姓を名乗り、叔父、元右衛門の家業を助け、自からもまた独立して酒造業を営みました。
翁はまた公共事業に身を挺し、教育の普及に努め、勝本区教育基金財産管理に努力し、勝本学務委員に推されること二十有余年、その間、勝本小学校の旧校舎及び本校舎の新築に参与しました。
(出典:勝本町郷土誌)
[ 鯨組の歴史 ]
壱岐の捕鯨は古くは弥生時代や古墳時代にまで遡ります。
その最盛期は、江戸時代中期より勝本浦で栄えた土肥鯨組であり、当時、大阪で発行された長者番付では、鴻池、土肥、三井と続き、壱岐の土肥家は天下の大富豪と謳われました。
富の源となった捕鯨、その獲れた鯨を運搬・浜上げ・切捌きした田浦納屋場(勘定納屋、東大納屋、西大納屋、骨納屋、腸納屋、轆轤など)の様子は、江戸時代の文献「壱岐名勝図誌」で知ることができます。
土肥鯨組の全盛は四代目の土肥市兵衛秀睦の頃で、平戸、対馬、大村周辺まで出かけて鯨をとり、1年間の捕獲頭数は200頭を超え、「鯨王」と呼ばれるように。また、最漁期には操業船56隻、従業者858人で、壱岐での捕獲頭数は年平均27頭、「鯨一頭しとめれば七浦うるおう」と言われていました。
また、土肥市兵衛秀睦は、1767(明和四)年9月、本浦を開拓して人目を驚かす豪華な御茶屋屋敷を完成させた。 その屋敷跡には高さ七メートル、長さ九十メートル、更に左に数十メートルの巨大な石垣塀(土肥家の阿房屏)が残っています。
8代目の頃から、英米の捕鯨船が乱獲したために、壱岐にやってくる鯨が少なくなり、9代目の土肥平吉郎のとき、安政年間(1854~1859)に解散。400年続いた壱岐の鯨組も幕を閉じたのです。
[ 鯨組の歴史 ]
壱岐の捕鯨は古くは弥生時代や古墳時代にまで遡ります。
その最盛期は、江戸時代中期より勝本浦で栄えた土肥鯨組であり、当時、大阪で発行された長者番付では、鴻池、土肥、三井と続き、壱岐の土肥家は天下の大富豪と謳われました。
富の源となった捕鯨、その獲れた鯨を運搬・浜上げ・切捌きした田浦納屋場(勘定納屋、東大納屋、西大納屋、骨納屋、腸納屋、轆轤など)の様子は、江戸時代の文献「壱岐名勝図誌」で知ることができます。
土肥鯨組の全盛は四代目の土肥市兵衛秀睦の頃で、平戸、対馬、大村周辺まで出かけて鯨をとり、1年間の捕獲頭数は200頭を超え、「鯨王」と呼ばれるように。また、最漁期には操業船56隻、従業者858人で、壱岐での捕獲頭数は年平均27頭、「鯨一頭しとめれば七浦うるおう」と言われていました。
また、土肥市兵衛秀睦は、1767(明和四)年9月、本浦を開拓して人目を驚かす豪華な御茶屋屋敷を完成させた。 その屋敷跡には高さ七メートル、長さ九十メートル、更に左に数十メートルの巨大な石垣塀(土肥家の阿房屏)が残っています。
8代目の頃から、英米の捕鯨船が乱獲したために、壱岐にやってくる鯨が少なくなり、9代目の土肥平吉郎のとき、安政年間(1854~1859)に解散。400年続いた壱岐の鯨組も幕を閉じたのです。
[ 殿川酒造 ]
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[ 酒蔵喫茶とのへ再生 ]
創業明治9年の殿川酒造の酒蔵は、焼酎造りの役目を終えた後、店主が行っていた錬心舘空手道場等を経て、令和5年に「酒蔵喫茶との」として再生しました。酒蔵の歴史や木のぬくもりを活かした造りで、殿川家が収集した書や調度品等も飾ってあります。
また、TV番組「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」の人気コーナー「開かずの金庫を開けろ!鯨王の旧屋敷に眠る開かずの金庫」で放送された「鯨王の金庫」を店内の通路から見ることもできます。
[ ロゴマークについて ]
殿川酒造の角樽に鯨組と勝本の海を融合させ、コーヒーカップと手書きの「との」をあしらいました。ロゴマークは、商店街側の入口戸のガラス等に使用しています。
[ ロゴマークについて ]
殿川酒造の角樽に鯨組と勝本の海を融合させ、コーヒーカップと手書きの「との」をあしらいました。ロゴマークは、商店街側の入口戸のガラス等に使用しています。