History

[ 殿川家の歴史 ]

殿川家は、初代 殿川徳次郎に始まります。

翁は、先代 原田元右衛門の弟 原田仙蔵の二男として、嘉永元年八月二十九日勝本で生まれた。幼時、父の家運が振わず、非常に貧乏のうちに成長。二十五才の時、父仙蔵と共に酒造業を始め、自ら米を搗き、水を汲んで兄妹を励まし、全く寝食を忘れて家運の挽回に努めました。

三十才の時、父を失った後、殿川姓を名乗り、叔父、元右衛門の家業を助け、自からもまた独立して酒造業を営みました。

翁はまた公共事業に身を挺し、教育の普及に努め、勝本区教育基金財産管理に努力し、勝本学務委員に推されること二十有余年、その間、
勝本小学校の旧校舎及び本校舎の新築に参与しました。

また、産業の振興にも奔走し、貯水溜池を坂本に築造し、勝本港正村湾の浚渫を為し遂げる等、その功績は些少ではない。常に浮華を戒め、質実剛健、努力主義を以て後輩を善導し、今日の勝本の良風美俗を育成した。大正十三年二月二十五日、翁は七十七才で没しました。

(出典:勝本町郷土誌)

[ 鯨組の歴史 ]

壱岐の捕鯨は古くは弥生時代や古墳時代にまで遡ります。

その最盛期は、江戸時代中期より勝本浦で栄えた土肥鯨組であり、当時、大阪で発行された長者番付では、鴻池、土肥、三井と続き、壱岐の土肥家は天下の大富豪と謳われました。

富の源となった捕鯨、その獲れた鯨を運搬・浜上げ・切捌きした田浦納屋場(勘定納屋、東大納屋、西大納屋、骨納屋、腸納屋、轆轤など)の様子は、江戸時代の文献「壱岐名勝図誌」で知ることができます。 

土肥鯨組の全盛は四代目の土肥市兵衛秀睦の頃で、平戸、対馬、大村周辺まで出かけて鯨をとり、1年間の捕獲頭数は200頭を超え、「鯨王」と呼ばれるように。また、最漁期には操業船56隻、従業者858人で、壱岐での捕獲頭数は年平均27頭、「鯨一頭しとめれば七浦うるおう」と言われていました。

また、土肥市兵衛秀睦は、1767(明和四)年9月、本浦を開拓して人目を驚かす豪華な御茶屋屋敷を完成させた。 その屋敷跡には高さ七メートル、長さ九十メートル、更に左に数十メートルの巨大な石垣塀(土肥家の阿房屏)が残っています。

8代目の頃から、英米の捕鯨船が乱獲したために、壱岐にやってくる鯨が少なくなり、9代目の土肥平吉郎のとき、安政年間(1854~1859)に解散。400年続いた壱岐の鯨組も幕を閉じたのです。

[ 鯨組の歴史 ]

壱岐の捕鯨は古くは弥生時代や古墳時代にまで遡ります。

その最盛期は、江戸時代中期より勝本浦で栄えた土肥鯨組であり、当時、大阪で発行された長者番付では、鴻池、土肥、三井と続き、壱岐の土肥家は天下の大富豪と謳われました。

富の源となった捕鯨、その獲れた鯨を運搬・浜上げ・切捌きした田浦納屋場(勘定納屋、東大納屋、西大納屋、骨納屋、腸納屋、轆轤など)の様子は、江戸時代の文献「壱岐名勝図誌」で知ることができます。 

土肥鯨組の全盛は四代目の土肥市兵衛秀睦の頃で、平戸、対馬、大村周辺まで出かけて鯨をとり、1年間の捕獲頭数は200頭を超え、「鯨王」と呼ばれるように。また、最漁期には操業船56隻、従業者858人で、壱岐での捕獲頭数は年平均27頭、「鯨一頭しとめれば七浦うるおう」と言われていました。

また、土肥市兵衛秀睦は、1767(明和四)年9月、本浦を開拓して人目を驚かす豪華な御茶屋屋敷を完成させた。 その屋敷跡には高さ七メートル、長さ九十メートル、更に左に数十メートルの巨大な石垣塀(土肥家の阿房屏)が残っています。

8代目の頃から、英米の捕鯨船が乱獲したために、壱岐にやってくる鯨が少なくなり、9代目の土肥平吉郎のとき、安政年間(1854~1859)に解散。400年続いた壱岐の鯨組も幕を閉じたのです。

[ 殿川酒造 ]

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[ 福島との接点 ]

現在、殿川酒店の代表:殿川正憲の実兄:殿川慶一氏は東京農業大学で農学者:小泉武夫氏に学んだ経緯から、福島県で酒造りの修行を行いました。

その後、良縁あって、福島に居を構え、現在は福島県の「奥の松酒造株式会社」の役員杜氏として活躍中。令和2年に「現代の名工」も受賞しています。

酒蔵喫茶とのでは、「現代の名工」記念酒である「
殿川 大吟醸雫酒」もご提供いたします。

[ 福島との接点 ]

現在、殿川酒店の代表:殿川正憲の実兄:殿川慶一氏は東京農業大学で農学者:小泉武夫氏に学んだ経緯から、福島県で酒造りの修行を行いました。

その後、良縁あって、福島に居を構え、現在は福島県の「奥の松酒造株式会社」の役員杜氏として活躍中。令和2年に「現代の名工」も受賞しています。

酒蔵喫茶とのでは、「現代の名工」記念酒である「
殿川 大吟醸雫酒」もご提供いたします。

[ 酒蔵喫茶とのへ再生 ]

創業明治9年の殿川酒造の酒蔵は、焼酎造りの役目を終えた後、店主が行っていた錬心舘空手道場等を経て、令和5年に「酒蔵喫茶との」として再生しました。酒蔵の歴史や木のぬくもりを活かした造りで、殿川家が収集した書や調度品等も飾ってあります。

また、TV番組「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」の人気コーナー「開かずの金庫を開けろ!鯨王の旧屋敷に眠る開かずの金庫」で放送された「鯨王の金庫」を店内の通路から見ることもできます。

[ ロゴマークについて ]

殿川酒造の角樽に鯨組と勝本の海を融合させ、コーヒーカップと手書きの「との」をあしらいました。ロゴマークは、商店街側の入口戸のガラス等に使用しています。

[ ロゴマークについて ]

殿川酒造の角樽に鯨組と勝本の海を融合させ、コーヒーカップと手書きの「との」をあしらいました。ロゴマークは、商店街側の入口戸のガラス等に使用しています。

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